翌日の昼下がり、ガルボイグラード郊外の小道を辿るの姿があった
  否、雪の無いこの夏の時期だけ姿を現す大地は一面季節を謳歌する丈の短い草に覆われ、『小道』と表現するのは些かおこがましくもある
  …詰まる所、夏でも誰も通らないため獣道ですら生されていない、と言う事だ
  その道無き道を迷う事無くが辿るのは、それが彼女の記憶に強く刻み込まれた道程であるからだ
  隣で歩みを共にするアレクサーは酷く口数が少ない
  元来、雄弁とは言い難いアレクサーであるが、今日はそれに輪を掛けて押し黙っている
  無論、彼が無言の行を貫いているのは、に対して何らかの負の感情を抱いているからではなく、寧ろに深い愛情を持つが故と言えよう
  その証拠に、アレクサーはまだ何も姿を現さぬ前方を先程からきつく見据え続けていた―――警戒と憎悪の眼差しで
  アレクサーのその視線の意味する所を十二分に理解しているは暫く沈黙を守っていたのだが、遂に耐え切れず言の葉を投げ掛けた


  「…ねえ、アレクサー。あの…ね、後三十分くらい歩いたら、見えて来ると思う。このスピードだと。」


  のようやくの呼び掛けに対し、アレクサーは尚も無言を貫いた

  …これが喧嘩でもしているのなら、幾らでも謝る事が出来るのに。

  がっくりと項垂れたは心の裏(うち)で両の手を挙げ、力無く再度その口を閉ざした



  ××××××××××××



  の先程の言葉通り、三十分も経過した頃に二人の視界を小さな建物が掠め始めた
  最初にその建物を捉えた瞬間、はその場で立ち止まった
  …足が、棒にでもなってしまったかの様に動かない
  いかに遠くからであっても、のその視覚を通し、忌まわしい記憶はいとも容易く心を侵食し始めてしまう
  今にも崩れ落ちそうになるに駆け寄り、アレクサーはしっかりとその身体を抱き留めた


  「…大丈夫か、。」


  今度はの方が沈黙に捕らわれ、何一つとして言の葉を紡ぎ出せない
  何とか口を開こうとすればするほど、ガタガタとピッチの短い震えがの真央から抹消へ駆け巡った

  …このままでは、痙攣を引き起こしてしまう。

  アレクサーはを抱き締める腕に少し力を加え、緩めると同時にに口付けた
  唇を通してアレクサーが己の小宇宙をに送り込むと、の身体はガクリ、とその場に崩れ落ちた



  五分程度の時間を挟み、は意識を取り戻して目を開いた


  「アレ…クサー…?」


  がその名を口にすると、アレクサーはようやくの事で愁眉を開いた
  アレクサーの膝の硬い感触がの背中に伝わり、凡その現状を把握したがアレクサーを見上げる
  に投げ掛けるサレクサーの眼差しには、この上ない安堵が満ち満ちていた


  「話せるようになったか、良かった。…でも、まだ無理に話さなくて良い。」

  「私…どうなったの?」

  「緊張性の痙攣を起こし掛けていたんだ。だから一旦、君の意識を遮断して負荷を拡散した。」


  アレクサーのその一連の解説を聞いたは、まだ薄っすらとしか開かない目を精一杯見開いた


  「すごいわ、アレクサー。…まるでお医者さんみたいね。」

  「…多少の心得があっただけだ。この国には医者も欠乏している。言うなれば、生きてゆくための知識の一環さ。
   兎に角、君がこうして無事ならそれで良い。……だが。」


  言葉尻を濁し、アレクサーは突如として眉間に皺を寄せた
  その視線の先には、の住み慣れた粗末な小屋が寒々しく立ちはだかっている
  小さく溜め息を落とすと、アレクサーはに一つ提案した


  「やはり、止めにした方が良くはないだろうか。このまま退き返そう。」


  徐々に視界がはっきりとして来たは己の身体に添えられたアレクサーの手に自分の手を重ね、ゆっくりと頭を振った


  「いいえ、行かないと。…あそこには私の仕事に関する道具や資料がそのままになっているもの。置いておく訳には行かないわ。
   ………それに、この現実の恐怖を今、私自身が正面から受け入れて乗り越えないと、私はこの先強く生きて行く力を失ってしまう。」

  「だが…。」

  「…良いの。これはきっと、私に与えられた試練なのよ。だから私、行くわ…自分の二本のこの足で。」


  酷く気に病んだ様相のアレクサーを制し、はゆっくりとその場に立ち上がった
  一歩足を前に踏み出した途端にの身体は大きく左右に揺れ倒れ掛けたが…その身体をアレクサーが脇から支えた
  が見上げると、驚いた事にアレクサーは微笑んでいた


  「、君は独りじゃない。君が試練に立ち向かう時、俺が君を支える。…君が俺に対して何時もそうしてくれているように、な。
   …さあ、行こう。君が君として生きる、そのために。」


  ありがとう、と短く答えたの頬に一筋涙が伝い、ブルーグラードの大地に溶け込んだ
  アレクサーに文字通り支えられたは一歩、また一歩と目的との距離を縮めて行く
  道無き道に二人の確かな軌跡がくっきりと刻み込まれて行くのを、傍らの草だけがサワサワと静かに見送り続けた





  ××××××××××××××××××





  「君は此処で少し待っていてくれるだろうか。」


  小屋の正面まで辿り着いたアレクサーは、玄関のドアから少し離れた階段にを一旦座らせた
  其処は丁度、ポーチの一番下の部分だ
  そのまま階段を一段づつ踏み締め、ゆっくりとドアの真正面に立ったアレクサーに、は訊ねた


  「…何をするの?アレクサー。」


  …まさか、ドアを蹴破るつもりだろうか?
  ほんの小半時前までの怒りの形相を思い起こし、は心もとなげにアレクサーを見上げた
  のその問いには答えず、アレクサーは扉の正面で顔を僅かに伏せると瞳を一旦閉ざした
  にはおぼろげにしか理解できないが、どうやら家の内部の気配を探っているように見える
  そのままたっぷり一分以上沈黙を守り、アレクサーは徐に顔を上げた
  まだまだ警戒を解くと言うには程遠いが、若干その表情を緩めたサレクサーがを手招きする


  「大丈夫だ。…おそらく、中には誰も居ない。」

  「ええ。」


  階段を昇りながら、は改めてアレクサーの持つ不可思議な能力に疑問と畏敬の念を抱いた
  少なくともには、ドアの前に立つ事でその内部を探る事までは出来そうにもないのだから
  …ともあれ、今アレクサーが他者の不在に言及したのであれば、おそらくは誰もいないのであろう
  それは今のに取っては非常に有難い話である以上、現状以外の余計な事は考えないに越したことは無いとも言える
  アレクサーの傍らまで移動し、はドアとアレクサーを交互に見上げた
  の意図を解したアレクサーが一度、深く頷く


  「…行きましょう、アレクサー。」


  言葉尻に重ねて、は勢い良くドアのノブに手を掛けると右に捻った
  …ドアはロックされていなかった
  少々古めかしい木製の扉は、内側に向けてギギギィ―と弧を描きつつ二人を内部へ招じ入れた
  ドアが開いた分だけ、灯りが落とされたリビングに光が差し込み、二人の影が木の床に長く落ちる
  自分が先に入ろうかと目で問い掛けるアレクサーに対してその頭を横に振り、は一歩、中へと足を踏み出した

  …来てしまった、此処へ今再び…。

  敢えて『帰って来た』とは考えず、はリビングの中央までゆっくりと歩みを進めた
  に遅れて、アレクサーも小屋の中に足を踏み入れる
  テーブルも椅子も暖炉も……が見慣れ、親しんだ物ばかりだ。それらに何一つ変わりは無い
  大きく変わってしまったのはの境遇の方だった

  …私とこの家は、今後一線を画す関係になる。それを選んだのは自分自身だと、自分でしっかり受け止める事が今一番重要。
  懐かしむべき思い出も、憎むべき体験も、そして恐怖に怯える事までも一度こうしてこの身で受け入れ………そして総てを此処に捨て去って、私は生まれ変わる。

  すぐ目の前の食卓にすら手を触れようとせず、は自室のドアの前に立った
  背中にアレクサーの存在を感じ、は顔だけ振り返って少し笑って見せた


  「此処がね、私の部屋………だったの。
   資料とか私物とかはみんなこの部屋にあるから、手早く纏めなくちゃ。」

  「……。」


  アレクサーには何も言えなかった
  掛けるべき言葉は見付からなかったが、その代わりに目の前の恋人を後ろからしっかりと抱き締めた

  …温かい。


  「ありがとうアレクサー、私は大丈夫だから。…好きな所で待っていてもらえるかしら?」


  振り返る事はせず、は敷居を一歩跨いで後背のアレクサーに言葉を投げ掛けた


  「…ああ、解った。」


  …敢えて傍には居ない方が良いだろうな。

  アレクサーは自室に入ったの背中を見送り、居間に独り戻る事にした
  の作業がどれだけ掛かるのかは判らないが、立ち尽くしていても仕方ない
  アレクサーはリビングのソファの前まで来ると、静かに腰を下ろした
  なるたけ音を立てないように最大限気を付けたつもりだが、流石のアレクサーの体躯にギシ…とソファが小さな悲鳴を上げた
  ごくごく質素なデザインのソファだが、それでも見た目以上に丈夫な造りではあるようだ
  其処にあくまで仮にその身を落ち着け、アレクサーは居間をぐるりと見回した
  テーブル、椅子、暖炉、そしてキッチン。どれもソファ同様に質素でありふれた品々だ
  だが、アレクサーが着目したのはその点ではない

  ……どうやら、一週間近く人間が居た形跡は無いようだ。つまりカノンはあの夜の後すぐに姿を消した、と言う事か…。

  まだ見ぬ一人の男の姿を脳裏に描くだけで、アレクサーの心は湧き上がる憎悪に満たされそうになる
  だが、今は感情よりも理性を優先させて考えねばならない
  ……カノンが一体何処に行き、そして何を企んでいるのかを。
  いや、そもそもカノンとは何者であるのか、そこから始めねばならないだろう

  座したままのアレクサーは小宇宙を研ぎ澄まし、家の内部に残る精神的エネルギーの痕跡を探ってみた

  …が、部屋の中で書類を束ねている。

  最も身近で、そして現在進行形のエネルギーがアレクサーの探索の網に最初に引っ掛かった
  今現在近くにいるのだ。の痕跡が一番強く感受されるのは当然と言えば当然である
  少々の苦笑を抑えながら、アレクサーは探索の手を更に拡げた

  …どれだけの時間が経過しただろうか。アレクサーは俄かに顔を上げるとその額にじんわりと嫌な汗を滲ませた

  おかしい。………この家にはここ数ヶ月のの痕跡しか残されていない。一体どう言う事だ!?

  アレクサーの眉間に、懐疑と言う名の深い皺が刻まれる
  歳に似合わぬ渋い表情を浮かべたまま、アレクサーは自らの筋書きを一つづつ脳裏に紡ぎ出してみた

  …自分の小宇宙の痕跡一切を抹消した、と言うのか。カノン自身が…おそらく一週間前、此処を去る際に。
  だとすれば、留意点は二つ。
  最初の一つは、カノンは己の小宇宙の痕跡を消すだけの能力を持っていると言う事。
  そしてもう一つは、何故己の小宇宙の痕跡を抹消したのか、と言う事だ。
  後者の答えは………おそらく…


  「俺……か。」


  アレクサーは小さく溜め息を落とした

  …カノンは、恐らく俺の過去の姿を知っている。つまり、俺が小宇宙を操る能力を有していると言う、その事実を。
  それを理解した上でのこの行為は………つまる所、俺にカノン自身の小宇宙の性質を解析・記憶させない事が真の狙いだと言う事だ。
  考え様によっては一種の挑戦状とも受け取れるが、しかしそれは唯単にこの現状に置かれた俺の考えすぎかもしれない
  挑戦状か否かは置いておくとして、この事実から考えると、カノンとは一体……


  「さっき何か貴方の声が聞こえたような気がしたけど、どうしたの、アレクサー?」


  アレクサーの深刻な推測は、突如後ろから届いたの声に遮られた
  気付いて振り返ると、アレクサーの斜め後ろ、丁度の部屋と居間の敷居に当たる部分にが立ってこっちを向いている
  ああ、いや…とやや濁しがちに言葉を返し、アレクサーも腰を上げた


  「…、片付けはもう終わったのか?」

  「ええ、粗方は、ね。それよりさっきから何か怖い顔をしていたけど、どうかしたの、アレクサー?」


  は敷居から数歩ほど歩み寄り、ソファの前に立つアレクサーの脇まで来るとその顔を見上げた
  アレクサーの様子を窺うその表情は、入り混じる不安と疑問で若干曇っている
  恋人であるに取って惨禍の地でしかないこの場所でこんな事を尋ねるべきか暫時迷った挙句、アレクサーは意を決してに一つの質問を投げ掛けた


  「に一つ訊きたい事があるんだ。…但し、俺のその質問に君は回答を出せないかもしれないし、或いは出したくないかもしれない。
   だから、無理に答える必要はないと、そう考えてくれて構わない。」


  アレクサーの謎の前置きの意味を今一つ図り兼ねたのだろう、は首を傾げたが、ややあって一つ頷いて見せた
  の動作に釣られるかの如く、アレクサーも深く頷いた


  「。君がブルーグラードに来てから………いや、その前も含めて、カノンを見ていて何か変わった点に気付いた事はなかっただろうか?」

  「変わった点……?変わった点って、例えばどんな事?」

  「変わった点と言うのはこの場合、『不思議な事』とでも解釈してくれて構わないんだが…そうだな、例えばカノンの周りに不思議な光が見えたとか。」

  「光……。不思議な光って、アレクサーに最初に出会った時、アレクサーの背後に見えたような物の事かしら?」

  「そう、そんな物だ。……尤も、あの時君にそれが見えたのには驚いたが…。」


  常人には見えぬよう、小宇宙を最大限抑えていた筈なのに…の一言だけは辛うじて飲み込み、アレクサーはぽつりと呟いた
  あの時は、氷闘士である元の部下達にアレクサー自身の存在を伝える、そのためだけに小宇宙を敢えて抑制していたのだ
  思えば、が此処ブルーグラードに送り込まれて来たのも、唯その研究能力を買われての事だけでは無いのかもしれない
  …或いは、カノンと長時間近くに居る事で、小宇宙を察する能力が多少研ぎ澄まされた可能性もあるだろう
  兎も角、所謂『一般人』であるに自分の微弱な小宇宙がはっきりと見えた以上、カノンに関する何らかの不審点を見付けていても別段可笑しくは無い
  アレクサーは其処からカノンの正体に迫ろうと考えているのであった
  は暫く黙って過去を思い起こしていたが、俄かに頭を横に振った


  「いいえ……光…みたいな物は見た事が無いと思うけど。」


  パシッ。
  刹那、まるで自分のその言葉尻を捕らえるかのように、の脳裏に赤い点が一度強く灯って消えた

  ………あれ……?


  「どうした、?」


  アレクサーの問い掛けを他所に、はその場に屈み込むとゆっくり瞼を閉ざした

  …私、何かを忘れてる……

  の脳裏に閃いた赤い点は、記憶としてはそれ単体で何一つ形を成さない
  だが、まるで視覚実験用の刺激のようなその赤い点に何か途轍もなく膨大な情報が集約されている気がしたは、意識を集中させて脳裏に再度、その赤い点を点滅させてみた
  最初は一箇所で色彩を発するに留まっていた赤い点は、ゆらり…ゆらりと徐々に左右に振れ始めた

  あの赤い点は……光…?
  光って、アレクサーの背後に見えたような不思議な物……?
  いや…違う。あれは………あれは、私も見慣れた………


  「暖炉。…そう、この暖炉の火の色だわ。」


  は徐に顔を上げると、ソファの横の暖炉に視線を投げ掛けた


  「、この暖炉が一体…?」

  「………ごめんなさい。少し待って、アレクサー。」


  不可思議な物を見るような表情でを窺うアレクサーを一旦制し、記憶に残された限りの出来事とその情景を、は一つづつ想起する
  まるで映画のフィルムのように、その一つ一つを繋ぎ合わせては更に時間を巻き戻す
  己の記憶の欠損部分――最初から存在しなかったのか、或いは何らかの理由で抹消してしまったのかは判らないが――を炙り出すその作業は、の脳裏でじわじわと…しかし確実に進行していた

  暖炉……この暖炉に爆ぜていた火。あれを見た時、私の傍にカノンが居て……私は温もりを感じた…。あれは…夢…。


  「違う。あれは夢じゃない。…夢なんかではないわ。」


  その一言を合図に、の身体にカノンの肉体の感触がありありと蘇った
  無論、それは先日の悪夢の話ではない
  …熾(おき)の爆ぜるこの暖炉の前で、カノンにきつく抱き締められていた、その感触。

  そうだ。私は確かに、カノンの腕に抱かれていた。……でも、何故…?

  は、早春の一日の記憶を巻き戻した
  NGOの任務で、単身ガルボイグラードの外れに老夫婦を訪(おとな)った、あの一日の事である

  風邪気味の身体に鞭を打って調査を終えた後、帰途で酷くだるくなって……寒くて……そう、街灯の下に座り込んで………確かカノンの名を呼んだ。
  私はあの時、死んだ…?……いや、それなら今生きてる筈が無いわ。
  カノンはあの時、私を探しにやって来たのだと思う。でも、あんなに大雪の降り積もる中、どうやって見付けたの…?
  それに、記憶すら無くなってしまうような、そんな酷い状態の私をどうやってあそこまで蘇生させたのだろう?
  胸に抱いただけで息を吹き返す、そんな事ってあるの…?

  ゆっくりと繋ぎ合わせた記憶から噴き出した幾つかの疑問が、の脳裏にこびり付いた
  一連の作業をひとまず終えたは再びその場に立ち上がり、アレクサーを見上げ深く頷いて見せた


  「貴方の言った『光』は見た記憶は無いのだけど、『不思議な事』の方はあるかもしれない。
   …尤も、今の今まで忘れていたような、そんな話なのだけど。それが貴方のために役立つなら、幾らでも話すわ。」

  「ありがとう。…でももし君に取って辛い話なら、俺は…。」


  否、と笑って首を横に振り、はアレクサーに早春の一連の出来事について話し始めた


  「アレクサー、これは貴方と此処で出会ったその数日後の話だけど………。」


  ××××××


  繋ぎ合わせた記憶の限りを恋人に総て語り、は一旦言葉を切った
  一方のアレクサーは話の途中から表情を曇らせ、顎に手を遣った状態で微動だにせず話を聞き続けていた
  無言を貫くアレクサーに対しはやや時間を置いて、付け加えるように一言を投げ掛けた


  「ねえ、アレクサー。今のはあくまでも非常事態だった私の、その記憶よ。だからどこまでが本当かは自分でも良く判らない部分もあるわ。
   もしかしたら自分で自分の都合の良い様に記憶を再構築しているかもしれないし、或いは最初から記憶として存在しない部分もあるかもしれない。
   だから、あまり深刻にならないで。」

  いや…と一言だけ返し、アレクサーは暫く経ってようやくその顔を上げた
  眉間に寄せられた皺が、彼の鋭い眼差しを一層研ぎ澄ましている


  「いや、。今君が語ったことはおそらく事実だ。且つ真実でもある。…無論、この話に関して君には何の責任も無いのだから、俺を気遣う必要はないよ。
   君にははっきりとした『形』としては見えないかもしれないが、恐らくカノンはある能力を有している。しかもかなり強い。」

  「ある…能力…?」

  「ああ。呼び方は兎も角、一種の超能力みたいな物だと思ってくれて差し支えない。
   昨日君からカノンの事を初めて聞かされた時から、もしや…と気には掛かっていたんだ。今、君の話を聞いてそれを確信した。」

  「超能力…みたいな物。アレクサーもそれを持っているのね?それと……そうセルゲイ達も。」


  はこのブルーグラードに来た当初、任務帰りに初めてアレクサーと出会った時の事を思い起こした
  近道をするために路地裏に入ったを突如としてかまいたちの様な物が掠め、頬に一筋の切り傷が出来た
  今思えば、あれもアレクサーの言う超能力の一つではないだろうか?
  無論、あの後現れたアレクサーの背後に見えた青白い光もその能力とやらであるのは間違い無いのであるが
  セルゲイの名を出されたアレクサーは一瞬だが苦笑を浮かべた
  どうやら、己の苦い過去を思い起こしてしまったのだろう


  「そうだな…セルゲイ達――つまり俺の昔の部下も、ある一定レベルではあるがその超能力を持っている。
   寧ろ、その能力を有している事が部下となる条件だったと言っても良い。そう言った連中で一つの戦士集団を構成していたのだから。
   …だが、彼らの能力はあくまでも一定のレベルだ。そうだな…、君の頬を触れる事無く傷付ける、その程度の力しか持たない者が大半だ。
   俺を外せば、セルゲイの能力が一番強いだろう。残りの奴等は怖れる程ではない。
   俺が言うのも妙な話だが、もし全員が強い力を持っていたら、2年前の俺のクーデターは確実に成功していただろうからな。
   ………だが。」


  悔やみ切れぬ過去を一旦断ち切り、アレクサーは表情を一層厳しくした
  触れたくないであろう過去を思い出させてしまった事を詫びようとして口を開きかけたは、アレクサーの最後の一言に思わず口をつぐんだ


  「だが……カノンと言う男は違う。、君の今の話から察するに、カノンは恐らく相当の能力の持ち主と見た方が良い。
   一つは、意識を失う寸前の君の心の呟きを、遠隔地のカノンが捉えた事だ。
   しかもカノンはそこから雪に埋もれた君の位置を正確に把握している。これだけでも相当の能力だ。
   そして、君を蘇生させる能力。君が本当に死んでしまっていた場合、カノンは反魂を実行した事になる。
   もし君が死の一歩手前だった場合であっても、そこまでの死の淵から君を引き戻すのは相当の技量を必要とする。
   死か死の手前か、そのどちらであったとしても、カノンの能力は恐ろしいレベルの物だ。」

  「カノンが…恐ろしい能力の持ち主…。」


  自分の理解の範疇を超える話をはただ呆然と受け止め、呟きを漏らした
  アレクサーは深く頷き、更に続けた


  「それと…これは今、此処で俺が探って気付いた事なのだが……カノンは此処を立ち去る時、自分の手掛かりを全部消して行ったようだ。」


  一つ前の話は何とか理解できたも、流石にアレクサーのこの発言の意味は理解出来なかったようだ
  は周囲をぐるりと見回した後、首を傾げて不審の表情を浮かべた


  「カノンが自分の手掛かりを消したって…どう言う事?だって、こうしてカノンが使っていた食器や家具はそのまま置いてあるし、他の物だってそのままよ。」


  の言う事はまったく以って尤もな話である
  故に、アレクサーは僅かにその口元を緩めて笑みを零した


  「、君の言う通りだ。意味の分からない話し方をした俺が悪い。すまない。
   俺が言った『手掛かり』とは、そこにあるカップや椅子のような可視的な物ではなくて、所謂『気配』と言う物の事なんだ。」

  「『気配』…?」

  「そう、『気配』だ。ある場所で誰かが一定期間暮らしていれば、そこに個人のエネルギーの痕跡が残る。
   場合によっては、ある場所を通り掛っただけでもその痕跡がくっきりと残る事もある。…無論、通常の人間にはそんな物は感知できない。
   運良く…と言って良いかは分からないが、俺にはその痕跡を感知・解析する能力がある。
   それで、今君が荷物を纏めている間に此処の『気配』を探ってみたのだが、不思議な事にカノンの『気配』は一切感じ取れなかった。…いや、消されていた、と言うべきか。」

  「つまり、カノンは自分の『気配』を抹消する能力も持っている…と言う事?」

  「そうだ。…しかもカノンが此処から己の『気配』を消したのは、俺が早晩此処に来て、カノンの事を探るのを事前に察知したからに他ならない…と言う実に愉快なおまけ付きだ。
   少し数えてみるだけで、カノンと言う男は恐るべき能力をこれだけ多く持っていると言う事だ。」


  険しい表情のまま、アレクサーは己の二本の腕を前に組んだ
  一方のに取って、ここ数ヶ月最も身近に居た男はあらゆる意味で恐ろしい存在であったのだ
  改めて身震いを感じたの視界に、一枚のドアが徐に立ちはだかった
  の視線の先に気付いたアレクサーは、サッと身体をスライドさせてドアを遮蔽した
  先程の『気配』の解析を通して、そのドアの向こうにの恐怖と屈辱の気配の痕跡がくっきりと残されている事をアレクサーは察知していた

  …アレクサー、気付いていたのね…。

  敢えて何も言わない恋人の胸に、は黙って己の顔を伏せた
  の背に腕を回して抱き締めたアレクサーは、その大きな掌で恋人の後ろ髪を数度、ゆっくりと撫で下ろした
  零れ落ちるの涙を胸に感じながら、アレクサーはカノンの存在に対し改めて呪いと共に強い懐疑を抱くのだった

  …俺の記憶に間違いがなければ、これだけの強い小宇宙の持ち主となると…カノンと言う男はおそらく………。
  だとすれば、そんな男を影で操るグラード財団の正体と狙いは一体………。

  窓から差し込む初夏のブルーグラードの日差しが、居間に立つ二人の影を一層長く落とした






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